皆さんこんにちは。
楽しくヒコーキです。
今回は、都心から近い立地にある茨城空港がなぜ、ここまでも成長せず不発になってしまった理由について考えていきます。
それではよろしくお願いします。
おことわり
今回のような歴史関係は諸説あることを前提にし、この記事には僕が解釈した内容を掲載する事とします。基本的に茨城空港の歴史を「楽しくヒコーキ塾(仮)」が解釈して、楽しくヒコーキ塾流の茨城空港の歴史に対する思想を書くため、情報や表現を鵜呑みにすることはおすすめしません。
もちろん、事実誤認があれば修正します。
LCCに好かれる空港の造り
茨城空港は2010年の3月11日に開港した新しい空港です。
空港施設は簡素なつくりになっており、LCC(低コスト航空会社)に好かれるものです。また実際に中国・韓国・台湾のLCCが就航しています。*1
ただ、LCCに好かれる空港という意味の裏を返すと、FSC(大手航空会社、いわゆるANAやJAL)には好まれない空港だと言えます。
LCCは空港までのアクセスをあまり気にしないものの、深夜や早朝に離発着できることや、空港使用量(諸経費)が安いこと、空港に需要量に見合った供給量があることには敏感に反応します。
このポイントが茨城空港の命運を分けたのではないでしょうか。
誘致は虚しくも失敗
一時期LCCの黒船という異名を持つエアアジアが茨城空港への就航に関心を示していました。
当時、簡素な造りを売りとしていた茨城空港は国内大手のANAやJALの関心を引かなかったこともあり、アジアに広いシェアを誇るエアアジアが関心を持った事は大きかったのではないでしょうか。
茨城県関係者はシンガポールやエアアジアの拠点でとあるクアラルンプール(マレーシア)に直接出向き、LCCが好む空港の造りを視察していたりしました。
その努力が報われエアアジアが就航してくれるのかと思いきや、ここで大きな技術的問題が生じます。
茨城空港は当時、滑走路の設計荷重区分はLA-12という中型機までの重量に対応したものであり、大型機(エアバスA330等)に求められる荷重区分LA-1を満たしていませんでした。
当時の国会で、政府参考人は次のように答弁しています。
このA330―300等の大型機材の関係で申し上げれば、設計の要領に基づいて決定されるその滑走路の舗装構造というのは、航空機の重量と利用頻度に応じた設計を行うということになっておりますので、そういう意味では、仮にA330型等の大きな機材が、例えば一日一便というような就航であれば、現状の舗装構造でも対応可能でございます。
この参考人が言っていることを意訳すると、離発着できないわけではない*2が、高頻度での離発着には耐えられない。ということであり、更に言うと、もしA330が就航するとなると、滑走路の設計荷重を超えることになるので、舗装の張替えの頻度が高く(痛みやすく)なると言うことでもあります。
このような問題から、エアアジアの茨城空港就航話は白紙になってしまったのです。
出だし好調だと茨城県関係者の誰もが信じていたものの、開港に向けた誘致が失敗に終わり、出鼻をくじかれた形になってしまったのです。
タラレバ話にはなってしまいますが、もし、もし滑走路が中距離を飛ぶエアバスA330の重量に対応していて、エアアジアが就航していたらば茨城空港の運命は、今とは全く違ったものになっていたのだろうなと考えてしまいます。
2011年3月11日
この日、茨城空港は2010年3月11日の開港から1周年となった。
逆境を乗り越え迎えた開港1周年記念日だったが、午後2時46分茨城空港は大きな地震に襲われた───
地震により旅客ターミナルは被害を受け、天井のパネルが落ちたり、かろうじて残った天井パネルが余震により落ちてくる可能性があるなど、再開に向けて片付け作業を進めたくても、下手に手をつけられない苦しい状況になったのです。
地震の3日後には空港の運用を再開しましたが、需要は減り、韓国との定期便も失ってしまうことになりました。
のちに韓国線は復活しましたが、空いた穴は大きく、開港1周年を迎えた茨城空港は振り出しに戻ったとも言えるのではないでしょうか。
いろいろあったが、開港10周年を迎えた
開港して軌道に乗ったかと思ったら、東日本大震災の被害に見舞われ、震災の復興も順調に進み、いよいよさらなる成長を始めるかと思ったらコロナ禍に見舞われと、山あり谷ありな歴史を持つ茨城空港ですが、今年は開港10周年です。
この規模で10年続けてきた事は立派ですし、並大抵な力ではないと思っています。
この記事の影響で皆さんの心がアンチ茨城空港にならず、過去を知った上で親しみを持って茨城空港に関わりを持ってほしいと思います。
最後に、茨城空港開港10周年おめでとう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。